人生が変わった留学とサッカー旅――特別ロングインタビュー

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旅先での体験やスタジアムの記録を丁寧に綴るブログ「FOOTBALL JOURNEY」。

今回は、その筆者である新城悠子さんに、学生時代の原点や旅への想いを伺いました。


― まずは簡単に、自己紹介をお願いします。
新城悠子(以下、悠子):
こんにちは。サッカー観戦と旅が大好きで、これまで30カ国以上を旅してきました。ブログ「FOOTBALL JOURNEY」では、実際に現地で感じた熱量や空気感をそのまま届けられるよう、観戦記や旅のエピソードを発信しています。

― サッカーや旅に興味を持ったのは、いつ頃からですか?
悠子:
きっかけは小学生のころ、テレビ越しに観たフランスW杯です。サッカーのルールもよく知らなかった私が、小野伸二選手のプレーに心を奪われて。それから私のサッカー人生が始まったように思います。
とは言っても、Jリーグを観に行くことはなく、日本代表の試合をテレビで観ることが多かったですね。高校生くらいから、海外サッカーにも興味を持つようになりました。

旅に関しては、正直いつから興味を持ち始めたのかは覚えていません。ただ、小さい頃から英語を習っていたこともあって、海外への憧れはずっとありました。高校は英語科を選び、初めての海外は高校2年生のときのタイへの修学旅行。実はタイ料理が苦手で…思い出としては微妙でしたが(笑)、外国の文化に初めて肌で触れた経験は大きかったです。

そして高校3年になる前の春休みに、交換留学生としてアメリカ・グレンデール市に3週間滞在させてもらいました。英語で思うように伝えられず、最初はホームシックにもなりましたが、この悔しさがバネとなって「もっと英語をがんばりたい」と思うようになり、留学制度の整った関西外国語大学へ進学しました。当時はまだ「旅が好き」というより、「もっと広い世界を見てみたい」という気持ちのほうが強かったです。

― 関西外大に入って、英語の習得は順調でしたか。
悠子:
いや、まったくそんなことはなくて…(笑)。
入学時の試験で、当時IESと呼ばれるオールイングリッシュの特別クラスの、上から2番目のクラスに入ってしまったんです。授業についていくのに必死で、サッカー部のマネージャーになるという夢は一瞬で砕けました。

授業と図書館とアルバイトの毎日で、サークルに入る余裕もありませんでした。バイトは時給の良いホテルの配膳スタッフを。「いつか海外旅行に行きたい」という思いで必死に貯金して、2年生の夏休みにドイツへ一人旅に出ました。語学力を試したくて国際ボランティアにも参加しましたが、思っていたほど英語が通じず、「もう英語イヤ!外大やめたい!」と帰国後、高校時代の英語の先生に相談したこともありました。

1回生が終わる頃には、進級も危ういと言われるくらい、本当に落ちこぼれでした。

― その後、留学するという夢はどうなりましたか。
悠子:
なんとか大学を辞めずに踏みとどまって、少しずつ勉強への意欲も戻ってきて。「2カ国(2年)留学」という制度に応募する決意をしました。オーストリアに1年、そしてイギリスに1年という計画でした(実際にはイギリスは途中帰国することになるのですが)。

スポーツマネジメントを学びたくて、本当は、イタリアとイギリスを希望していたんです。でも大学の派遣先の決定は希望通りにならず、イタリアではなくオーストリアになりました。そのときはかなりガッカリしていました。

― 留学先での生活はどうでしたか?
悠子:
オーストリアのクーフシュタインという、ドイツとの国境に近い街に派遣されました。そこでは私が唯一の日本人で、言葉も文化も違い、本当に大変でした。ドイツ語の授業にも苦戦し、英語の授業でも周りはレベルが高くて、やっぱりここでも落ちこぼれ生徒。でも、不思議と毎日楽しかったんです。友達には本当に恵まれて、今でもかけがえのない思い出です。休日には近隣諸国に足を伸ばし、各地のサッカースタジアム巡りもしました。

― イギリスでは何があったんでしょうか?
悠子:
本来は1年間の予定でしたが、5ヶ月で帰国することにしました。
実は、オーストリアから帰国した夏に父が白血病になり、入院生活が始まっていて。祖母も体調が悪く、イギリス行きを辞めようか悩みましたが、結局は行く選択をしました。

ただ、イギリスの授業は想像以上にハードでした。精神的にも不安定になっていた中で、スタバでパソコンを盗まれるという事件が起き、完全に心が折れてしまって。

冬休みに一時帰国し、精神安定剤を処方してもらいました。帰国後、父が入院してる病院に行き、抗がん剤治療の影響で、ひとまわり小さくなった姿を見て「こんなときに私は何をしてるんだろう」と思いました。自分で決めた留学なのに、弱音を吐いてる自分がとても情けなかったですね。

― 本当に大変だったんですね…
悠子:
はい。年明けにイギリスへ戻ったのですが、また授業にも出られなくなってしまって…。現実逃避で寮に引きこもってポケモンばかりしてました。ほんとにダメ人間ですね(笑)最終的には学校とも相談して、成績不良による帰国というかたちで留学を終えることになりました。

ただ今振り返って思うのは、あれほど願っていたイギリスでは心が折れるほど苦しくて、願っていなかったオーストリアでは想像以上に素晴らしい体験を得られたということ。

この経験から学んだのは、「人生、必ずしも自分が望んだことが最良とは限らない」ということです。
その時は「絶望」と感じるかもしれないけれど、あとから振り返れば「あれで良かった」と思えることがある。
もし今、思い通りにいかないことがあっても、それが最善だったと気づく日はきっと来る。——そう思えるようになりました。

― 帰国後の進路や、就職はどうなりましたか?
悠子:
本来なら9月卒業の予定でしたが、留学を途中で辞めたことで急遽3月卒業に変更に。
当然就職活動もしていなかったので、とりあえずユニクロでアルバイトを始めました。

その後、母校から声をかけてもらって、留学生サポート部署でもアルバイトを始め、しばらくは掛け持ち生活。バイトをしながらキャリアセンターで相談し、無事に翌年4月からの就職先が決まりました。

― どんな会社に就職されたんですか?
悠子:
スポーツマネジメントとは全く関係のない会社に就職しました。
その会社では海外事業部に配属され、日本からアメリカに赴任する方々の住居サポートを担当していました。

出張で年に一度アメリカへ行く機会もあり、決して遊びではないけれど、毎回楽しくて仕方なかったですね。

― そんな中、また旅をするきっかけは何でしたか?
悠子:
仕事にはやりがいを感じていました。でも、この先ずっとこの会社にいたら、“好きなときに好きなところに旅をする”というライフスタイルは実現できないかもしれない、と気づいたんです。

ちょうど幹部候補への昇格の話をいただいたとき、「今ここでイエスと答えたら、この会社を辞めるタイミングはもう来ない」と思い、退職を決意しました。
周囲にはかなり驚かれましたが、最終的には快く送り出してもらいました。

退職したのは2018年です。ちょうどロシアW杯の年で、私が30歳になる節目の年でした。
6月にロシアへ渡り、そこから約1ヶ月半、人生初の“世界放浪旅”に出ました。

― そのタイミングで、サッカー旅ブログを始められたんですね。
悠子:
目の前で繰り広げられる試合、世界中から集まったサポーターたちの熱狂。
あのとき感じた空気を、どうしても記録に残しておきたかったんです。

それが、「サッカー旅って本当に面白いんだよ」と誰かに伝えたい、という気持ちに変わっていって、自然と情報発信するようになりました。

― これまでの旅で、特につらかった出来事や、挫折した経験はありますか?
悠子:
たくさんあります(笑)。

たとえば南米では、ロストバゲージでスーツケース1週間無しで過ごしたり、
スペインではスリに遭って財布を失ったこともあります。

そのときは本当に泣きそうになるし、パニックにもなりました。でも、あとから振り返ると、そういったトラブルも大事な経験だったなと思えます。
「どうにか自分で乗り越えた」という事実が、確かな自信にもなっているんです。

― なぜ、そこまで旅が好きなんでしょうか?
悠子:
なんで旅が好きなんだろう、とよく考えるんですが、やっぱり「知らない世界に出会えること」が楽しいんですよね。日本では当たり前のことが、別の国ではまったく違っていて、その違いに触れるたびに、自分の価値観が少しずつ広がっていく。
それに、旅先では必ず誰かの優しさに助けられてきたので、そういう人との出会いも、旅の魅力かなと思っています。

― このブログを通じて、読者に伝えたいことは何ですか?

悠子:
サッカー観戦も、ひとり旅も、最初はハードルが高く感じるかもしれません。でも、少しずつ情報を集めて、思い切って一歩踏み出せば、意外と難しくないということがわかると思います。

私自身も、学生時代に先輩方の留学体験談や世界一周旅行の本を読んで、モチベーションを高めていました。このブログが、誰かの「やってみたい」を後押しする存在になれたら嬉しいです。

― 本日は貴重なお話をありがとうございました。


今回は、旅とサッカーに人生をかける新城悠子さんの、原点とこれまでを伺いました。
挫折も、出会いも、気づきも、すべてを糧にして前へ進んできた彼女の歩みは、きっとこれから旅に出ようとする誰かの勇気になるはずです。

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